「イエスとは誰ですか」マタイ 16:13-28 3 月 7 日
わたしたちは、レントの期間を過ごしていますが、レントの出口イースターにわたしたちを待つものをしっかり受け取るために、教会の暦の中でのこの時期を大切にしたいと思います。
今日わたしたちに与えられた聖書は、わたしたちがどのようなものを自分の救いと考えるのかをわたしたちに問いかけます。
「救い」は一般的には、安心とかやすらぎとか、涙をぬぐわれることとか、痛みが取り去られることとか、そういうイメージと結びつけられるものです。
福音書の中で、イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だといっているか」世間で、イエスはどのようなものだと思われているか、世の中でイエスはどのようなものと受け取られているかを尋ねました。弟子たちは答えます。「洗礼者ヨハネだ」という人も、「エリヤだという人もいます」。それは、イエスの時代の人々にとって、仰ぐべき指導者のイメージでした。洗礼者ヨハネは、清く正しい生き方を示し、神に立ち返れと勧め、自分は腐敗した政治指導者と対立して命を落としました。その修行の厳しさは、誰もが納得する、正しい生き方を示していました。イエスを洗礼者ヨハネだと言う人々は、イエスにもそのような指導力を求めていたのであり、そこに従っていれば神に受け入れられるという安心を願っていたのです。
一方エリヤは、昔の預言者です。旧約聖書の中では間違った政治家としばしば対立し、神に立ち返るよういさめました。そして、神によって天に引っ張り上げられた人と信じられていました。世の中が混乱し、社会がゆがみ切った時代にもう一度あらわれて、社会を正してくれると信じられていました。乱れた世の中を終わらせて神の元へと方向転換させる、神の裁きをもたらす預言者です。イエスをエリヤだという人はいえすにもそのような力を振るうことを願っていたのです
人々はイエスのことを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」とかほかの預言者「エレミヤだ」とか言っていました。それは自分の求める願いを与えてくれるものをそのままイエスの上に重ねることです。そこには自分の願いが、自分の望みが叶えられることを第一に考えていることが反映されています。
イエスは重ねて尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」イエスが弟子たちに向かって「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うとき、それは、自分の評価を尋ねているのではありません。そうではなくて、それは弟子たちの内側を問うものです。
世間が何を期待し、どのようなものと私のことを考えているとしても、「あなたがたはわたしにどのように出会っているのか」ということを問いかけています。イエスの問いは、イエスに向かう弟子たちの実存を尋ねているものです。
それに対して「あなたはメシア、生ける神の子」とペトロは答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子」ペトロのこの答えは何を意味していたのでしょう。
メシアとは誰であるのか、メシアとは何であるのか、メシアを期待する人々の間でははっきりしていません。メシアは旧約聖書以来、ユダヤの人々が待っている救い主ではありますが、そのメシアが、自分になにをもたらしてくれるのか、実のところ当時の人々はぴんと来てはいませんでした。メシアは病気を治してくれる人、メシアは新しい王様、メシアは食べものを満ちたらせてくれる。人々は人々のニーズのなかでメシアを思い描きました。
ペトロは言いました、「あなたはメシア」です。
またペトロは言いました、「(あなたは)生ける神の子です」神が生きて今ここに働いている、その神の子であると。それはメシアよりももっとあいまいで定義しにくいものであるでしょう。神の働きが今ここにあることは、私にとっての真実でしかないから。他の人には伝えきれない、理解してもらえないかもしれない出来事です。
ペトロがイエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子」というとき、おそらくそれは、今までの常識、自分が生きている世界の考える価値の基準とは違うものを、漠然と言い表そうとする行為であるでしょう。
それは、清く正しいこと、とはっきりわかっているものでもありません。メシアは、洗礼者ヨハネのように正しい倫理を提供するものでありません。
またそれは、神が世界を正しく裁いてくれる保障でもありません。生ける神の子は、エリヤのように、悪からすみやかにわたしたちを救い出しててくれるものでもありません。
「あなたはメシア、生ける神の子」は、自分の生きてきた文化の教える範囲の中で、良いと判断できる倫理を提供するものではなく、自分の受け継いできた宗教の伝える範囲で救済を近づけるものでもありません。
「あなたはメシア、生ける神の子」です、そのようにイエスを言い表すことは、そうした自分たちの範疇に収まらない、自分にもまた同時代の人間にもとらえきれないものとして、さらには言葉でも表現しつくされないものとして、イエスを言い表すものに他ならないのです。それはその存在全体に、信頼し、自分を投げかけることでもあります。
決まった形ではなく、人によって様々な仕方で人を救うメシアとして、そしてまた今ここで生きて働く神の子、としてペトロはイエスに対して信仰を告白します。言葉で表現し尽くせない、実はあいまいな形で、ペトロはイエスへの信仰を告白します。しかし、それこそが生きて働く神を人間が表現しうる唯一の方法なのかもしれません。
イエスは言いました。「私はこの岩の上にわたしの教会を立てる」言語で固定し、表現し尽くすことのできない、生きた神の働きをペトロは告白し、その上に「教会を建てる」とイエスは言いました。
イエスの「メシア、生ける神の子」としての働きは、どのようにして人々に知られるのかといえば、それは決して人間にとってわかりやすい納得を与えるものではありませんでした。イエスは十字架にかけられていのちを落とし、すべてを失うことによって、人間を命に取り戻したからです。それは清く正しい道に人を導くことでもなければ、悪を打ち倒すわけでもありません。ただ、裏切りを赦すこと、絶望の中に希望を見せること、死に直面していのちを生きることでした。
そのような「メシア、生ける神の子」への信仰の上に、わたしたちの教会は建てられています。わたしたちが、失うことは神の前のいのちを得ることで、わたしたちが十字架を背負うことは神に従うことです。期待通りには行かないわたしたちの日々の歩みは、「メシア、生ける神の子」である主イエスに結びつけられることで、決して空しいものに終わることはありません。イエスとはわたしたちにとって誰なのか、そのことを心に刻むレントの日々を歩みましょう。
祈ります。いのちの造り主である主なる神さま。あなたの与えてくださる救いも、恵みも、わたしたちが期待するものの範疇を超えていることを感謝します。わたしたちが生ける神の子、イエス・キリストに繋がって、あなたの福音に生きることができるよう、レントの日々に十字架と復活の出来事を深く覚えさせてください。